■■ 所感 ■■
著者は総持寺でも修行され、徳雄山健功寺の住職でもあり、庭園デザイ
ナーかつブリティッシュ・コロンビア大学特別教授。
題名にもあるように…
”シンプル”です。
理屈ではなく、シンプルに行動に移しやすい、単純なことが書いてありま
す。
禅というと、難しくとらえられてしまいそうな部分を、そうではなく、実にシン
プルなものであり、足元に禅的行動、禅的思考はあるのだということを
教えてくれているような感じのする、”優しい”オーラを感じる本です。
いっぱい線を引きました。
それは添付ファイルで紹介させていただくとして…。
もっとシンプルに、「これを実践しよう」というようにしないと、線を引いてそ
れでお終いになってしまうな…と少し反省。
ぜひ皆さんにも読んでいただきたい…読んでいただく価値はある本だと
思います。
経営者の方々には物足りなさを感じる部分もあるかもしれないですが、
それでも感じるところはあると思いますし、その上でスタッフに読んでもら
うと、会社の中にいい価値観共有ができる…そんな本ではないかと思い
ます。
■■ 心に残った箇所 -本書より抜粋- ■■
●仕事における成功とはなんでしょう。
禅の世界では、結果のために仕事をするというのではなく、今できることを
愚直に行うと、必ず結果がついてくるという考え方をします。
目標に自分がとらわれ振り回されてしまうと、「こうあるべき」という考えに
とらわれ実は成功が遠くなる。
一方、目標をもちつつも、自分が今できることを、できる形でただひたすらに
やっていけば、自ずと成功に導かれることを、禅は私たちに説いています。
●人間とは「身口意」(しんくい)---身(からだ)、口(言葉)、意(気持ち)に
よって生かされています。
そしてこのうちどれか一つでもバランスを欠けば、途端、病に陥るといわれています。
「歩く」というのはとても大切な行為です。
人は一歩一歩歩くことで、呼吸を整え体を整えているのです。
●「形直(なお)ければ影端(ただ)し」。
「形」とはからだのこと。からだ(姿勢)が正しく美しければ、その「影」も自然と
「端正」になるという意味です。
●禅の世界には「三黙道場」と称される場所があります。
ひとつは坐禅をする僧堂、ひとつはトイレである東司、そして浴司とよばれるお風呂です。
この三つの場所では一切話をしてはいけません。なぜならそこは、悟りを開く場でもある
からです。
●私たちは苦しみから逃れようとすると、必ず欲が生じます。
それが「煩悩」といわれるものです。この煩悩にとらわれ必要以上に自分を追い詰めると、
苦しみの裏側が見えなくなってしまいます。苦しみから逃れるのではなく、ゆっくりと
苦しみの裏側をめくってください。そこには必ず、喜びの種が落ちています。
●見栄と執着。
ただそれだけのために、自分の力以上の生活を手に入れようとしてはいけません。
物に縛られるくらいなら、いっそ必要な物だけを残して、綺麗さっぱり捨ててしまえば
いいのです。
幸福になるために必要なのは物ではありません。そこに生きる人間の智慧と明るさなのです。
●ストレスとは勝手にたまっていくものではなく、あなた自身がためているものなのです。
●身近にあるものの曇りをいつもとるようにしてください。
会社のデスクでも、自宅の鏡でもかまいません。汚れているから拭くのではなく、自分の
心を磨くつもりで毎日拭く。
そうしたことを習慣にすれば、自然と心の曇りもとれるのです。
●ほころびは早いうちに繕えば、必ずや元の姿に戻ります。
しかし一度でも手に負えないところまで放っておいてしまったら、もうコントロールは
できません。
心もこれと同じです。
●「玄関を見れば、そこに住む人の生活がわかる」。これは昔からよくいわれていることです。
玄関の靴がきちんと揃えて脱がれ、そこがいつも美しく掃除されている家の人は、生活すべて
がきちんとしているものです。
●手紙を書くということは、自分と向き合うことでもあります。
禅僧は書を嗜みますが、それは作品として書いているわけではありません。
字を書くことで、自らの心に問いかけるという作業をしているのです。
メールばかりを「打つ」のではなく、ときには手紙を「書いて」みてはいかがですか?
●「割鏡不照」(かっきょうふしょう)という言葉があります。
「割れてしまった鏡は、もう照らすことはない。すんだことにくよくよせず、
その力を前向きに使うことが大切だ」という言葉です。
(中略)
禅がいうところの「反省」とは、自己批判を求めることではありません。ただ冷静に自己を
省みることです。
●心にある不安は、実は実体のないものです。
ほとんどの不安はあなたの心が勝手につくりだしているものです。
あなたの心があなたの心をまどわせているのです。
今起こってもいないことに不安になる。
それはとても無意味なことです。
実体のない不安に押しつぶされそうになったら、不安を書きだしてみてください。
そうすればそれがいかに空虚なことかわかるでしょう。
●「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし」。
この言葉は道元禅師の言葉で、「どのような場合でも、柔和な態度でものごとに接しなさい」
という意味です。
常に機嫌よくいることは、相当にむずかしいことかもしれません。
ただ、それをわかったうえで、穏やかに人に接することを忘れずにいる。
どこかで自分自身を客観的に見すえながら、どんなことに対してもいたずらに心を惑わされる
ことなく、常に平常心(びょうじょうしん)を保ち笑顔を心がける。
こうした心がけこそが、毎日を良きものにしていくと思うのです。
「和気(わき)財を生ず」---いつも和やかな気にあふれたところには、幸運がやってくる、
という言葉です。
●禅における時間というのは、効率性を求めるものではありません。
今というときに精神を集中させる。そうすればおのずと効率もよくなるという考え方です。
「随処に主となれば、立処みな真なり」という言葉があります。
「いかなる場所においても、集中して精一杯にやれば、どこにいても真実のいのちにであえる」
という意味です。今やっていること、そのものになりきりなさいということです。
●物事にはすべて、俗にいう「へそ」があります。
物事の中心、核心にあたる場所です。それを見極めることが、禅の修業でもあるのです。
●仏教には三世に生きるという表現があります。
三世とは「未来」「現在」「過去」の三つです。
この三世を私たちは生きているとされています。
このうち未来は次々と生まれてゆき、過去は次々と死んでいく。つまり日々生死(しょうじ)
を繰り返しているのです。
●「前後際断」(ぜんごさいだん)---昨日は昨日、今日は今日、明日は明日であって、それらは
まったく連続するものではない。一日一日、一瞬一瞬、一息一息、それぞれがみな絶対的なもの。
私たちは、この一息に生きているという言葉です。
その一瞬一瞬こそが人生の真実であるのです。
●禅には、今できることをあとにするという発想はありません。
今という時間こそがすべてです。
●予定を立てることは大切です。
しかし、すべて順調にいくと考えてはいけません。
うまくいけばそれでいいし、うまくいかなくても落ち込むことはまったくない。そのときにまた、
新しい予定を立てればいいだけのことです。
人が筋書きを追ってしまうのは、そこに不安があるからです。
不安感を払拭するために筋書きをつくってしまう。ある意味では仕方のないことですが、あまりに
とらわれすぎないようにすることです。
●あるとき弟子が僧の禅師に尋ねました。「12時をどんな心をもってすごしたらよいのですか」と。
禅師はいいました。「あなたは12時に使われ、私は12時を使いきっている。あなたはどちらの
時間のことを尋ねているのですか」。
(中略)
時間に追われている感覚というのは、実は時間に使われているということです。
●二元的な考え方をすると、そこには選択が生じ、どちらかに執着することになります。
執着心が生まれたら、人は冷静でなどいられません。
(中略)
二択で物事にあれこれ執着するのではなく、あなたは今なすべきことをなせばそれでいいのです。
●禅のたとえ話に、春風にそなえて開花の準備をしていた梅の木と、春風が吹いたら開花の準備を
しようとしていた梅の木の話があります。
たった一度しか吹かなかった春風をとらえ、花を咲かせたのはもちろん前者の梅の木でした。
チャンスという「縁」を結ぶためには、常に心の準備を怠ってはいけません。
最初の縁をうまく結べばその縁が次々と良縁を運んでくれる。これが「縁起がいい」ということです。
春風はみなに平等に吹いています。一瞬の春風を見逃さず開花の準備をしてください。
●「任運騰騰」(にんぬんとうとう」---人生は風まかせ、運まかせ。という禅語です。
「人生はなるようになる」ということでしょうか。
毎日の積み重ねが明日のあなたをつくり、将来をつくるのに、今を見据えず将来ばかりを憂え、
悩み苦しんでいる人が多いのはなぜでしょう。
わざわざ悩みを探さなくても、人生には悩みがたくさん落ちています。心配しないでください。
●「魚行きて水濁る」という言葉があります。魚が泳げば水が濁る---つまり、「起きたことは
隠せない」という禅語です。
これは二つの意味をもっています。
自分のやるべきことをコツコツやっていれば、必ず誰かが見てくれる。
同様に、虚偽を塗りつぶして結果を出しても、それも誰かに見られているという言葉です。
(中略)
自分に恥ずかしくないことをやっていれば、仮に一時的な冷遇があったにしても、
必ず認められるときがやってくる。
●ここがダメならあそこがある。
そういって人は新天地を求めますが、ほんとうに大事なのはその人の心のもち方です。
自分自身が今いる場所でできうるかぎりの思いを尽くさなければ、なにをやってもどこに
行っても結果は決してつきません。
他に居場所を探すのではなく、今自分がいるその場所で、その場になりきる。
それができればどこであろうと生き甲斐を感じることができるのです。
「大地黄金(だいちおうごん)」---このようにその場で力を尽くしてこそ、自分の場所が
黄金に輝くという言葉です。
●むかし、ある一人の僧が禅師に「暑さ寒さから逃れるにはどうすればよいか」と聞きました。
禅師は答えました。「暑さ寒さのないところに行けばよろしかろう」と。「それはどこに
あるのですか」と再び問うと、「暑いときには暑さになりきり、寒いときには寒さになりきる。
そこが暑さ寒さのないところだ」と答えたそうです。
物事には常に両面があります。物事自体を変えようとするのではなく、視点を変え自らを
融合させる。それが生きる知恵でもあります。
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